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Still Life with S.T,N.E. #2 Kenichi Kobayashi (Nibandoori Wine Shop)

小林謙一 二番通り酒店 オーナー北海道の小樽で二番通り酒店を営み、自分たちの琴線に触れたフランスのワインを輸入、販売しています。妻と子どもたちとフランスと北海道を行ったり来たりしながら暮らしています。最近ソファの必要性を知りました。 ワイン以前には、利き酒ならぬ”利き湯”で全国1000を超える温泉を巡っていたというケンさん。そこで鍛えた繊細な感覚が、ワインをしっかり感じ取る力にもつながっているんだと思う。ガッツポーズしながら「全力で!」がケンさんのおはこ。

Still Life with S.T,N.E. #1 Naohiro Akiya (yacipoci)

秋谷直弘 yacipoci ( と wapiti と poru ) オーナー酒と音楽と趣味にまみれた男。週末は夫婦して愛車のローバーミニで「サンソン」を聴きながらドライブに夢中。もちろん夜は酒場にまっしぐら。 大阪・北浜の「yacipoci」は、昭和初期の復刻ビアサーバー「スイングカラン」で丁寧に注がれる生ビールと、レコードから流れる音楽を楽しめる大好きなお店。音と一杯が、自然と時間の流れをゆるやかにしてくれます。

Always with Dogs

いつも犬と 文:黄瀬徳彦  物心ついた時から、家にはロックという雑種犬がいた。中学1年の時に死んでしまい、その1週間後には仔犬をもらってきた。玄太と名付けた。もちろん車の免許はまだない。信貴山に行くときは、玄太を大きなカバンに入れて知らん顔で電車に乗った。目的地の駅に着くと、カバンから出して改札を一緒に駆け抜けた。二輪の免許を取ってからは、スクーターの前に立たせるスタイルや、大きなバッグに入れて顔だけ出した玄太を背負い、オートバイの後ろに乗せたこともある。 その玄太は、TRUCKを始める少し前に死んでしまった。その後すぐに、ラブラドールのBuddyがやってくる。初期のTRUCKは、Buddyが主役であり、サポーターであり、すべてだった。数年後にはDingo、そのおなかにいたJohnとJackが産まれて仲間入り。そしてBuddyの息子、Juniorも。そこに猫8匹もいた。毎日が賑やかでとても楽しかった。 朝いちに猫トイレの掃除。犬5匹のリードを片手に自転車で、サンタクロースのように散歩するのが日課。家の中のトイレ掃除。留守中にトイレシートをビリビリにする犯人。やったらあかんと分かっているのにやめられない。HR SOFAのアームをガジガジ、レザーを“ニャンニャン”どころかジャーキーとして食べてしまうJack。ソファから飛び降りて着地に失敗し、腕を骨折したJohn。手術費用に仰天したこともある。もちろん、日々のお食事、お水を絶やさずキレイに。 常に何やかんやとお世話ばかり。ちょっとした用事をしてくれるわけでもない。それなのに、なぜかいつも口にしてしまう。 「ありがとうねー」 「ほんまにありがとう」 なんでやろ?

Maps

地図 文:黄瀬徳彦  地図が好きだ。ブラックバス釣りに夢中だった小学生の頃、大阪府の地図帳を開いては、泉南に池がたくさんあることを知り、そこを目指して早朝から電車で出かけていた。近隣の山に行くときは、天王寺の旭屋書店(当時、情報源のほとんどはここだった)へ。店の片隅にある地図コーナーの引き出しには、A1サイズの1:25,000や1:50,000の地形図がびっしり入っていて、行きたいエリアを探すのが楽しかった。畳み方があることも本で学び、分かった気になって折りたたんでは喜んでいた。でも、使っているうちに破れてくる。そんな中、昭文社の「山と高原地図」シリーズ、“金剛山 岩湧山”などの“破れない地図”は画期的で、「にわか雨に降られたら傘がわりにしてください」なんて書かれていた。素敵!そんな、“地図で等高線から斜面やルートを読み取れる人”っぽく、地図を使っていた。16歳になるとオートバイに乗れるようになり、行動範囲は一気に広がった。毎週のように、どこかへ出かけていた。テントとシュラフがあれば、どこでも泊まれる自由。高2の夏休みには、憧れの北海道へ。地図を見てルートを決める。そこには必ず想像が伴う。記憶と想像を頼りに走り出し、走っている間も、ずっと勘を働かせながら進んでいく。時には「あれ? ちょっと違ってるかも」と立ち止まり、地図を開いて確認し直す。そこに誰か人がいれば、すぐに声をかけて尋ねてみる。明るく、爽やかに。道を聞くだけでなく、いつの間にかいろんな話をして、地元の情報まで手に入れていた。それはアメリカでも、ヨーロッパでも同じだった。ナビなんてない時代、頼れるのは紙の地図だけ。ドイツで道を尋ねたとき、道路工事のおっちゃんたちが5人がかりで、一生懸命に教えてくれた。しっかりとドイツ語で。最後に「わかったか?」と聞かれて、まったく分かっていないことをジェスチャーで伝えると、みんなで大笑いになった。結局、通りかかったパトカーが、目的地まで先導してくれた。そんな経験が、たくさんある。それらのすべてが、好きだった。 あの頃から変わらない好奇心と行動力こそが、今の自分を作ってきたのだと思う。

Dogs and People

犬と人間  文:黄瀬徳彦

   小学校の卒業文集に書いた文のタイトルは「犬と人間」。みんなが林間学校や運動会の楽しかった思い出を書いているなかで、一際異彩を放っていた。 
12歳の少年は、そこで何を言いたかったのか?当時やっていた通信学習の国語で「犬にごはんをあげる」と書いた。すると添削されて返ってきた答案には、赤ペンでバツがつけられ、「犬にエサをやる」と直されていた。それがどうも理解も納得もいかず、そのことをなぜか卒業文集に残していた。 今思うと、“答え”を絶対のものとして、何も考えずに受け入れることができなかったんだと思う。それは、ある意味すごく大事なこと。常に「本当にそうかな?」と考えてみること。 これまで家具を作り、何軒も建物を建て、本を出版したりする中で、その都度それぞれの“プロ”がいて、彼らの常識を突きつけられる。僕は、そんな経験者たちの話をリスペクトを持って聴くのが大好きだ。真剣に耳を傾けて聴く。 でも、“プロ”が「それは無理です」と言ったときに、「そうですか、残念」で終わらせていたらそれまで。「無理です」と言われることは本当によくある。何十回、何百回とそんな場面があった。でも僕は、いつも“アイデア”でそれを乗り越えて生きてきた。「諦めたらあかん」を合言葉にして。 まずは先方の言っていることをしっかり理解する。そこから「ひょっとして、こうしてこうしたらどう?」と瞬間的にいくつもアイデアを出す。すると、「それならいけるかも」と、少し光がさす。そしたらこっちのもので、一緒に作戦を立ててやってみる。そう、やってみるのが大事。 いつもゲーム感覚のようで、その壁を工夫して乗り越えられたときには、大きな満足感がある。実際、その後に生まれる違いはかなり大きいし、何よりすごく楽しい。 小学生のころ、何がそんな自分を育んだのかははっきりとはわからないけれど、あの頃から今につながるものが確かにあったんだなと、遠くに思いを馳せる。結構おもろい奴やったなぁ。 

In the Yard with My Father

父との作業 
文:黄瀬徳彦
   「初めて作った家具は?」ある本の取材でそう質問された。えっ、何かな?と記憶を遡る。思い浮かんだのは、子供のときに庭で父と一緒に作ったスリッパ立て。小さな板に木の棒を何本か立てたようなもの。父の作業を横で見ていた。ノコギリや金槌を使う父。その微かな記憶には、「器用には見えない」という印象が引っ付いている。そう、父は決して“器用な人”ではなかった。でも、よく家の中の作業を一緒にしていた。毎朝の畳の部屋の箒がけ(箒の持ち方、立てるときには穂が斜めにならないように逆さに、左右均等に満遍なく使う、四角い部屋を丸く掃除したらダメ)、窓ガラスの雑巾がけ(父の雑巾の洗い方が記憶に刻まれている)、庭の樹の剪定(剪定といえるのかどうか?素人のチョッキンチョッキン)、そのときに出た枝葉を穴を掘って埋める作業(肥料になると信じていた父)、屋根のペンキ塗り(夏の鉄板屋根が熱かったことを覚えている)など。子供ながら、よく手伝っていた。いつも楽しく、というよりは、どこか“やらされている感”があったと思う。今振り返ってみると、あんな父との作業のひとつひとつが、今の自分をかたちづくる大きなひとつの基礎になっているのかな、と。静かな感謝とともに、懐かしく思える。